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教育格差の是正と就学支援金の評価(コラム#046)

 自民党の調査会では、所謂「高校無償化」の就学支援金の対象から、超富裕層の子弟等を外すべきとの考えを表明したところであるが、春の3党合意にこだわらず、「教育を受ける機会を出来る限り公平なものとしていく」という基本目的に照らして、限られた財源をどのように使うのが妥当なのか、関係者で改めてきちんと議論してほしい(ソーシャル・コモンズ代表 竹本治)。

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 報道によれば、自民党の「教育・人材力強化調査会」は、2月に公明党・日本維新の会と合意した、「高校の授業料等の無償化」(注)の対象から、超富裕層の子弟などを外すことを検討すべきとの考えを、最近になって表明したとのことである。誰のどのような教育関連費用を支援するのが社会的にみて「公平」なのか、関係者全員に納得してもらうことは至難の技であるが、財源が限られていることは間違いない。春の3党合意にこだわらず、必要な見直しを進めていただきたい。


(注)(1)2025年度からは、所得制限を撤廃し、国公私立を問わず、全世帯を対象に就学支援金を支給することとしたほか、(2)2026年度から、私立高校に通う場合の就学支援金の支給上限を引き上げる、としたもの。





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 「氏より育ち」という言い方がある。遺伝的な形質は一定程度影響することはもちろん否定できない。しかし、育つ家庭の社会・経済的地位(SES)が高いか低いか、どのような地域・周囲の環境に囲まれているかによって、子どもの人生の展開は大きく異なりうることは、様々な研究によって明らかとなっている。


 恵まれた家庭環境にいた場合、子どもはより良い教育機会を得られる可能性が高まるし、結果的に、高い能力や学歴を身につける確率も高くなる。こうした「家庭のSESの違いによる、子どもの学力や学歴達成に関する格差」は、日本ばかりでなく、どの国でも大なり小なり見られる。


 教育政策では、(1)対象となる子ども全員が、社会人としてきちんと生きていけるように、「教育を受ける機会」を等しく与えていくこと(「公平性」の実現)が重要な目標となっている。一方、(2)画一的な教育だけでは、「意欲や、能力のある子ども」の学ぶ機会が失われる。そればかりでなく、社会全体の損失ともなることから、なんらかの「選抜」「差異化」を積極的に行っていく役割も担っている。


 このように、「公平」と「差異化」という二律背反的な目標をどのようにバランスさせていくのかは、教育政策の永遠の課題である。しかも、教育に充てられるヒト・モノ・カネは相当限られている。



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 こうした中で、春の3党合意にあった「就学支援金の『所得制限撤廃』」はどう評価するか。


 理想を言えば、子ども全員を対象として、授業料どころか、就学に関する一切の費用もかからないようにしていくべきである。しかし、財源が相当限られているという現実があり、それはとてもできない。


 とすれば、自前で賄える家庭にはできる限り自己負担をしてもらいながら、限られた財源を、そうでない家庭の子女へのより手厚い支援に充てるのが筋である。そうやって初めて、教育機会の底上げが図られる。「公平性」を実現する上では、所得制限をなくして、税金を使って(超)富裕層までも支援することは、逆のベクトルを向いており、やはり悪手である。


 授業料ばかりでなく、教育に関連する費用の裾野は非常に広い。経済状況が厳しい家庭にとっては、修学旅行・制服の代金から、塾に通う費用、さらには家庭で購入する書籍や、習い事の月謝代まで、何から何まで負担感が大きい。高SESの家庭のような教育環境を、子どもに用意することはとてもできないのが実情である。


 限られた財源の中であればあるほど、そうした家庭への支援を中心に据えた上で、学校外教育へのアクセスや家庭環境の改善など、どうやって多面的にサポートするか、丁寧に議論すべきであろう。

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 一方、「私学についての、就学支援金の支給上限額引き上げ」はどうか。大前提として、3党合意の「所得制限の撤廃」部分は同様に見直すべきだとしても、「上限額引き上げ」の是非の判断は悩ましいところがある。


 経済的に厳しい家庭の子女が、「私立学校に行く」という選択肢を事実上奪われている点に着目するのであれば、「私学就学支援金の支給上限額の引き上げ措置」は歓迎される。むしろ、金額的にはまだまだ十分ではないので、もっと充実させるべきという主張になるであろう。一般的に、私立学校の方が公立よりも個性あふれ充実した教育を施しているとした場合に、「意欲や、能力のある子ども」が、家庭の経済的環境のせいでそうした「選別」された教育環境に入れないのだとすれば、そこは是正されるべきである。

 しかし、そもそも私学は都市部に集中しているし、全国の殆どの子女は公立学校に通っている。仮に、私学は都市部の高SESの家庭だけが自主的に選択する場所だ、と割り切れるのであれば、「教育機会の公平性の実現」の観点からは、むしろ、公教育をあまねく充実させる方がはるかに大事である。国としては、よりよい教育機会を全国の「大多数の」子供たちに提供することを優先すべきである。地方創生を重視する立場からしても、そうなるであろう。


 国に先んじて私学就学助成金を増やした大阪では、伝統ある公立高校が定員割れしたとの報道もみられた。税金で賄っていくはずの公教育が、私学就学助成金の充実によって、ハンディを負わされるようになっては、本末転倒である。すでに、首都圏では私学優位の図式が出来上がって久しいが、なけなしの税金の使い方としてはやはり勿体ない。



 誰しも、自分が実際に受けてきた教育が、判断の物差しとなってしまう。市立中学・県立高校で育った筆者も、その例外ではない。教育政策を考える上で、個人的経験が強いバイアスとならないよう、関係者におかれては、出来る限り多面的な観点から議論を深めていってほしい。

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