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やれない理由を引き続き探すのか~選択的夫婦別姓制度を考える(コラム#039)

選択的夫婦別姓制度については、「家族のあり方」あるいは「ジェンダーの問題」としてとらえるのだけではなくて、「社会人になってから、苗字を変更すること」のコストが現代社会では高くなっていることを十分認識していけば、もっと冷静に議論をすすめていけるはずである。(ソーシャル・コモンズ代表 竹本治)




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 「選択的夫婦別姓制度」(結婚する際に、夫婦が名字を同じにするか、別々にするか自由に選べるようにする制度)については、これまでも色々なかたちで議論がなされてきた。


 10月には、国連女性差別撤廃委員会は、日本への対面審査を8年振りに実施し、そこで「夫婦同姓制度」(結婚する際に、夫婦が名字を同じにするようにする制度)を法律で義務づけていることは、実質的に女性に対する差別的な規定であるとして、法改正の勧告を出している(注)。


 そうした中、「改姓」をめぐる社会制度のあり方について、筆者なりに整理してみたい。


(注)この対面審査は、女性差別撤廃条約に批准している国は数年に一度受けるもの(日本だけが対象ではない)で、広くジェンダーに関連する事項を取り上げる場となっている。そして、同委員会では、「夫婦同姓」については、2003年の対面審査において同様の法改正の勧告をしている。その後も国内の法律・社会の実情が殆ど変わってないことからすれば、それ以降の審査(2009年、2016年、今回)で同様の勧告をすることは、当然の対応となる。




 まずは、歴史を振り返ってみる。比較的よく知られていることであるが、以下の点を確認しておきたい。

(1)江戸時代までは、一般に町民・農民は苗字を名乗れなかった。

(2)明治初期に、平民に氏の使用が義務化された。当初は「夫婦別姓制度」(結婚する際、夫婦は別々の姓を用いる制度=妻は結婚前の姓から変えない=)が採用された。

(3)明治後半(1898年)になって、「家制度」の下、「夫婦同姓制度」(夫婦ともに「家」の氏を称する制度)が導入された。

(4)戦後(1947年)は、「男女平等」の理念の下、「夫婦同姓制度」(夫婦は,その合意により,夫又は妻のいずれかの氏を称する)に変更された。


 つまり、歴史をみると、①庶民が苗字を持つこと、②夫婦同姓であることのいずれも、比較的最近の話ということになる(=わが国固有の伝統文化とまではいえない)。



 次に、ここ数十年間での主な社会的変化についてみてみる。


(1)戦前には、「家」を継ぐもの(長男ないし、男子のいない家の長女等)以外の男女が養子に出されることは、よくみられたが、「家制度」のなくなったあとの戦後も、そうした風習は一部続いた(=結婚以外の理由でも、しばしば苗字が変わった)。

(2)少子化が進み、上記(1)が徐々に減っていく中、特に男性については生涯で苗字を変えないケースが大多数となっていった。結婚に際しても、「夫の氏を称する」夫婦の比率は今も95%近い水準にある。


(出所:法務省HP)


(3)改姓する機会の相対的に多い女性の社会進出が進む中で、「社会人になってから、苗字を変更すること」のデメリットを実感する人も増えている。

(4)公明党並びに野党の大半は、法改正に前向きであるが、自民党の保守派を中心に反対する声が強く、ここ30年間の議論を経ても法改正はなされていない。

(5)そうした中、現行法制度を維持したまま、その不便さを解消しようとして、様々な場面で旧姓使用が認められるようになってきている。

 しかし、本年6月には、経団連でも「通称使用による限界が顕在化」しているとして、選択的夫婦別姓の早期実現を求める提言を発表するなど、主にビジネスの場面での不便さは実態としてかなり残っている。

(出所:法務省HP)


(6)この間、世界主要国では、(姓の法令上の取り扱いはまちまちであるが)少なくとも現時点では、夫婦同姓を「義務」にしているところは日本のほかにはない。

 

 このように、夫婦同姓を「義務」としている制度の硬直性の問題は、「家」のために苗字を変えることが当然視されていた頃には強く意識されなかったのが、社会の仕組みが変わる中で、徐々に、今度は「ジェンダー」の問題として注目されるかたちとなっている。そして、法改正賛成・反対を巡っては、「家族の絆」vs.「ジェンダー平等」といった、いささか情緒的な議論が目立っている。

(出所:法務省HP)



 だが、筆者は、本件については、「家族」「ジェンダー」といった視点としてみる前に、認識しておくべき点があるように思う。


 試しに、ひとつ思考実験をしてみる。仮に、「男女平等」の理念に沿って現行の「夫婦同姓制度」が運用されて、結婚時に選ぶ姓が男女それぞれ半々になったとしよう。

 その場合には、国連女性差別撤廃委員会としては、「ジェンダー」の観点からの問題を指摘しようもないはずで、わが国として法改正をする必要もない。


 しかし、それでも、結局は、法改正は不可避であると筆者は考える。その主な理由は、現代社会においては、「社会人になってから、苗字を変更すること」のコストが非常に大きくなっているという点である。


 80年前には、男女問わず改姓しても、実質的には不便はさほどなかったであろう。しかし、今や、社会人になってから、苗字を変更したときの社会生活上の不便さは、圧倒的に大きい。現代社会では、銀行口座・クレジットカード登録はもちろんのこと、仕事で使う名前まで、「個々人が自分の『現在の本名』を使うこと」が前提となっており(特に、公的な登録関係では通称・旧姓が使えない)、各種試験からFacebookに至るまで実に沢山のところで本名を使用・登録している。




 そして、何よりも姓名は、社会生活で本人を認識する旗印となっている。村社会でずっと生きるのではなく、広い世間で活動するようになればなるほど、改姓することの不便さは、住所変更手続のような一過性のコストではなくて、長い期間に亘るものとなる。


 現行法維持派は、「通称を使えば十分だ」と主張するであろうが、要は「改姓をすること自体」が大変不便なことなのである。


 もうひとつ思考実験をすれば、本件の問題は、もっと明確になるであろう。仮に、男女問わず、「25歳及び45歳になったら改姓をすること」を国民全員に「義務化」したとしよう。


 想像したくもないくらい不便で、理不尽な社会である。経済界はとくに反対するであろう。

 

 そして、実際には、現在も大勢の人がそうした不便さを甘受しながら、生活したり仕事をしたりしている。



 付言すれば、年間の結婚件数(約50万件)のうち4分の1は再婚である。また、離婚件数は同じ年の結婚件数の3分の1にも上っている。つまり、生涯で複数回改姓をする人の数は、子供たちも含め、相当増えてもいる。夫婦同姓を「義務化」しているから、これは不可避のこととなっている。


 今回の衆議院選挙では、法改正に後向きであった自民党が大敗し、政党の勢力図が大きく変わったことから、議論が進む可能性がある。


 改姓をめぐる社会制度の問題は、「家族のあり方」といった情緒的な話にも関連するし、あるいは「ジェンダーの問題」としてとらえられがちでもある。しかし、上述の通り、「社会人になってから、苗字を変更すること」のコストが現代社会では非常に高くなっているということを、十分認識していけば、もっと冷静かつ建設的に議論をすすめていくことが出来るはずである。


 国民が、人生の途中で、コストのかかる改姓を極力しないですむように、「選択肢」を持てる社会制度にしていくことは十分理にかなったことであろう。



(出所:法務省HP)


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